「元品の無明」の克服こそ難事


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「元品の無明」の克服こそ難事



法華経とは「生命変革の法」であり、煎じつめれば「元品の無明」を克服するための大法です。「元品の無明」とは、生命にもともと具わる「根本的な迷い」です。これには、いろいろな観点があるが、日蓮大聖人は「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(治病大小権実違目997㌻)と仰せです。
 また「兄弟抄」にも「第此れは第六天の魔王が智者の身に入って善人をたぽらかすなり法華経第五の巻に「悪鬼其の身に入る」と説かれて候は是なり。設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼身に入って法華経と申す妙覚の功徳を障へ候なり、何に況んや其の已下の人人にをいてをや」(1082㌻)と言われている。

 斉藤 等覚といえば「妙覚」すなわち「仏の悟り」と等しい悟りを得たとされる最高位の菩薩です。その等覚の菩薩でさえ「元品の無明」を克服できないと。いいかえれば、「元品の無明」を克服したかどうかが「成仏」のポイントになるわけです。
 遠藤 どちらの御文も「元品の無明」が「第六天の魔王」と顕れて法華経の行者の障害となるという意味ですね。
 「第六天」とは、三界のうち欲界の第六番目の天、すなわち「他化自在天」です。他を自在に動かして喜ぶ天とでもいいましょうか。いわゆる「権力の魔性」と考えられます。
 
名誉会長 「他化自在天」とは、こうも考えられないだろうか。「自分以外のすべてを、自分の手段として利用しょうという生命の根本的傾向性」と。これは生命が生きていこうとする限り、ある意味で自然な欲求といえます。反対に「自分を周囲のために捧げよう」とすることは、極めて難しい。慈悲、人間愛、奉仕。これらは、素晴らしいことであるが、実践は極めて困難です。
 
 宇宙と自分は一体不二である。そう頭ではわかっても、生命の根底ではわからない。これが「元品の無明」とも言えよう。この無明のために、宇宙を自分のために奉仕させ、手段にしようとする。それが「他化自在天」であり「第六天の魔王」であり「権力の魔性」です。
 
 法華経では、自己即宇宙と説く。その具体的実践は慈悲であり、相手を「宝塔」として尊敬し、礼拝し、難に耐えながら、自他不二で幸福になっていくことです。その実践には、必ず自身の「元品の無明」との戦いがある。そして他の人々の「元品の無明」をも刺激し、激発するゆえに、難があるのです。
「権力の魔性」とは権力者だけにあるのではない。「智者の身に入って」と仰せのように、世間から尊敬されている精神的指導者が「権力の魔性」をふるう場合もある。
 斉藤 「僭聖増上慢」ですね。(第十三章・勧持品に説かれる「三類の強敵」の第三)
 
 名誉会長 大難は大抵、この両者(悪の権力者と悪の精神的指導者)が結託して起こるのです。これは過去も現在も未来も同じです。
 
遠藤 そう見てきますと、三変土田で「娑婆即寂光」とするために、最後に「無明惑」と戦わなければならなかった――そのことと、きちっと一致してきます。
斉藤 天台の説いた「三障四魔」も、本来は、自身の内観を進めていく過程で生命の深層から出てくる障魔のことですね。一念三千すなわち自身の一念が宇宙と一体であることを体得するためには、それら内なる七つの障魔(三障四魔)と戦わなければならない。それが大聖人の仏法では、主に妙法を行ずる過程で外から襲いかかってくる障魔というように、ダイナミックなとらえ方になっています。
須田 「元品の無明」との戦い、「権力の魔性」との戦いに勝つことが、「法華経を持つ」ということであるならば、たしかにこれは「難事」です。
名誉会長 そう。「九易」の「物理的」事例も、「教理的」事例も、これに比べれば、難事ではない。
遠藤 物理的事例は、不可能に見えますが、あくまで外面的なことです。事実、科学技術の発達が、その一部は可能にしつつあるかもしれません。
名誉会長 ともかくポイントは「外面世界を動かす」ょりも「内面世界を変え」ほうが難しいということです。このことを「六難九易」は教えているとも言える。
須田 また「九易」の教理的事例も、法華経以外の経典では「元品の無明」を克服しないゆえに「易しい」のですね。
名誉会長 ただ注意しなければならないのは、法華経は「無明法性一体」と説くことです。くわしくは別の機会に論じることにしたい。
魔王にも「体の魔王」と「用(働き)の魔王」があると大聖人は言われている(御講聞書843㌻)。体の魔王とは「無明法性一体」としての本有の魔王です。用の魔王とは、そこから派生する“働き”としての「第六天の魔王」です。無明法性一体ですから、最後は、魔王さえも仏法を護るのです。法華経に「魔及び魔民でも仏法を護る」(授記品)とあるのは、このことです。ただ今回は、この「用の魔王」を中心に学んでいるわけです。
斉藤 そこで、この「権力の魔性」ですが、これだけでも何回も論じなければならないテーマです。
名誉会長 その通りです。「権力悪」とは何か――これは二十一世紀を考える上でも根本的問題です。なぜか。二十世紀とは、この「権力悪」がある意味で極限にまで肥大化した時代だからです。その代表が「ファシズム」であり「スターリニズム」です。
遠藤 右と左の両翼という対極の立場でありながら、ともに恐怖の全体主義社会を出現させた点では共通しています。
名誉会長 全体主義にとっては、一切が権力者の「手段」となる。人間はそこでは「道具」にすぎない。「モノ」にすぎない。「数字」にすぎない。いな「無」にすぎない。それはナチスによる「ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)」、またナチスが劣等者とレッテルを貼った心身の障害者への迫害を、少しでも見れば明らかです。
それは余りにも残酷であるゆえに、安易に口にしたくはない。そこでは「人間」が、権力者たちが勝手に決めた基準によって「役に立つ」とか立たないとか選別されたのです。そして虐殺です。
須田 日本軍のアジア侵略でも、狂気としかいいようのない「人間のモノ化」が行われました。
遠藤 「権力の魔性」はいつの時代にも存在していたわけですが、二十世紀においては、それが巨大化し、組織化されたわけですね。
名誉会長 イデオロギーで「正当化」されもした。その上に、科学技術の進歩が、悲劇を拡大した。原爆、(ナチスの強制収容所の)ガス室などがその象徴ですが、人間の虐待を大規模に、また徹底的に行える力を人間は手にしてしまったのです。
 また科学技術そのものの本性として「一切を数量化する」傾向がある。“魂なき科学技術”は「人間のモノ化」に拍車をかけます。「原爆」は「権力の魔性」の象徴です。「魔王」が形になったようなものです。「魔」とは「奪命者(命を奪う者)」という意味なのです。その反対が「仏」です。「命を蘇生さ
せる者」です。
斉藤 「核兵器を使った者は魔ものであり、サタンである」との戸田先生の原水爆禁止宣言は、そういう生命の洞察に裏づけられていたわけですね。
名誉会長 戸田先生は、全生命で宇宙に瀰漫(びまん)する魔と戦っておられたのです。戦いは壮絶でした。その苦痛、その緊張感は、だれにもわからないでしょう。普通なら、病気になるか、死ぬか、自殺するか、精神に異常をきたすか――それくらい、生命への猛烈な圧迫があるのです。
原爆は「無明」が形になったものと言いましたが、それは「人間不信」と「人間憎悪」が形になったものとも言える。哲学者のマッタス・ピカート博士でしたか、原爆は「分裂する世界」の象徴と論じていました。
 (「もろもろの原子を結合して原子世界を成立せしめていた力が、いまや一つの世界を爆破し粉砕するために利用されるのである。原子爆弾が、今日、この時代に――万事を分裂することによって生き、且つそのために死につつあるこの時代に――発明されたのは、決して偶然ではない」(『われわれ自身のなかのヒトラー』、佐野利勝訳、みすず書房)
 「権力の魔性」は「分裂」させます。人と宇宙、人と人、国と国、人と自然を「分断」させます。
 反対に、「慈悲」はそれらを「結合」させます。そして宇宙そのものに「結合させる慈悲」がある。
 宇宙そのものが本来は慈悲なのです。その意味で、宇宙は仏と魔との戦いの舞台です。
 「権力の魔性」と「慈悲」との戦いです。「生命を手段にする」欲望と、「生命を目的とする」慈愛との闘争です。人間を砂粒化し、「無」化していく力と、人間を宝塔化する力との、せめぎ合いなのです。
斉藤 お話をうかがって思い出すのは、有名なカントの「尊厳」の定義です。カントによれば、人間は「尊厳」である。それは「人間は、けっして、目的のための手段にされてはならない」ということだと。(取意、『道徳形而上学の基礎づけ』)
遠藤 カントといえば、もうひとつ思い出すのが「考えれば考えるほど、ますます感嘆と崇敬で心を満たすものが二つある。それは、わが上なる星々の輝く空と、わが内なる道徳律である」という言葉です。(取意、『実践理性批判』)
 「宇宙」と「内なる法」ですね。これが不二であるというのが仏法です。ゲーテの“内がそのまま外なのだ”に通じます。しかも、これがともに「慈悲の法」であるというのですね。すべてを「結合」させる力というか……。
名誉会長 冒頭、話の出たカズンズ博士も「わたしは宇宙の秩序と道徳の秩序とのあいだに区別を認めない」(松田銑訳、前掲書)と言われています。
 「わたしはこの宇宙の秩序を包含したり、命令したりはできないが、この秩序に同化できる。なぜならわたしはその一部であるからだ」(同)とも。カズンズ博士は、お会いしてすぐ、「この人は菩薩だ」と直感しました。偉大な方でした。
須田 “原爆乙女”の治療に奔走されたり、ナチスの“実験モルモット”にされたポーランドの女性たちの心身を癒すために尽力されたことは有名です。
名誉会長 本当に「権力の魔性」は残酷だ。その反対が「一人の人を、かけがえのない存在として愛する」ということです。そのために尽くし、そのために苦しむ。そのことを自分の喜びとする生き方です。
ナチスの強制収容所からの“生還者”である有名な心理学者フランクル博士(『夜と霧』の著者)は、講演でこんな話を紹介しています。あるお母さんの手紙の一節です。
「私の子供は、胎内で頭蓋骨が早期に癒着したために不治の病にかかったまま、一九二九年六月六日に生まれました。私は当時十八歳でした。私は子供を神さまのように崇め、かぎりなく愛しました。母と私は、このかわいそうなおちびちゃんを助けるために、あらゆることをしました。が、むだでした。子供は歩くことも話すこともできませんでした。
でも私は若かったし、希望を捨てませんでした。私は昼も夜も働きました。ひたすら、かわいい娘に栄養食品や薬を買ってやるためでした。そして、娘の小さなやせた手を私の首に回してやって、『お母さんのこと好き? ちびちゃん』ときくと、娘は私にしっかり抱きついてほほえみ、小さな手で不器用に私の顔をなでるのでした。そんなとき私はしあわせでした。どんなにつらいことがあっても、かぎりなくしあわせだったのです」(V・E・フランクル著『それでも人生にイエスと言う』、山田邦男・松田美住訳、春秋社)。これが「人間を手段化する」権力の魔性と対極の姿でしょう。
斉藤 宝塔品の深い意味が少しわかってきたように思います。
名誉会長 権力の魔性を、もっと身近なことで言えば、リーダーが「人に苦労を押しつける」というのもその一つです。自分が楽をして、いやなこと、大変なことは人にやらせる。「責任」も人に押しつけ、自分は甘い汁だけを吸おうとする――。
こんな言葉があります。「どんな国にも大変なことはある。もし、あなたが大統領であれば、大変なことは君自身にふりかかってくる。しかし、もしも、あなたが独裁者ならば、あなたはこの大変なことを他の人々にふりかかるようにできる」(ドン・マーキス著『アーチとメヒダブル』)
「指導者」と「独裁者」は違う。指導者というのは、自分が皆のために苦しんでいく
人なのです。
大聖人は「元品の無明」は「第六天の魔王」と顕れ、「元品の法性」は「梵天・帝釈等」と頼れると言われている(治病大小権実違目997㌻)。魔王は独裁者。梵天・帝釈は指導者です。両者の違いは決定的です。「天地雲泥」と言える。一方、一念の世界においては、「紙一重」とも言えるのです。
斉藤 私たち皆が、気をつけていかなければなりませんね。こうしてみますと、冒頭、話していただいた「人間の無力感」も、現代社会が人間を「機能」だけで見たり、「手段」としてしか見ないことが大きな要因だと思われます。
遠藤 子どもも、ただ「成績」だけを基準に「序列化」されることは、たまらないでしょうね。かけがえのない存在として受けとめてくれる場所が本来は家庭のはずなのですが、家庭までが、成績という「部分」をもって、子どもの「全体」を測ろうとする傾向がある。これでは子どもが本当の意味での自信――「何があっても自分は自分だ」という強さをもてなくなってくるのも当然かもしれません。
名誉会長 そう。生命に序列はつけられない。だからこそ「尊厳」なのです。
 子どもにも大人にも「無力感を感じさせない」ための教育を与えていく。心の滋養を与えていく。そして連帯していく。これが現代の根本的要請です。
 その意味で、万人に向かって、「あなたこそ宝の塔なのです」「かぎりない力を秘めているのです」と呼びかける宝塔品は、豊かな示唆を与えてくれているのではないだろうか。
あらゆる「権力の魔性」と戦い続けることこそが「法華経を持つ」ことであり、その人間愛の苦闘によってこそ、我が身が、真に「宝塔」と輝くのです。我が生活が、永遠を呼吸する「虚空会」に連なるのです。瞬間瞬間が、生きる歓びのエネルギーに彩られてくるのです。

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